最北端の小堀遠州庵

最北端の小堀遠州庵
八窓庵と小堀遠州
札幌に息づく大名茶人の遺産
中島公園の日本庭園にひっそりとたたずむ茶室 「八窓庵(はっそうあん)」。 安土桃山時代・江戸時代初期の大名茶人 小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作といわれています。 およそ四百年前に造られた貴重な遺構が、 なぜ札幌にあるのでしょうか。 そして、小堀遠州とはどんな人物だったのか。その歴史をたどります。


札幌によみがえった八窓庵
都心にありながら豊かな緑に囲まれた中島公園。
その中にある日本庭園では、ひっそりと立つ木造の建物が、森閑とした雰囲気をさらに引き立たせています。
その建物が八窓庵(旧舎那院忘筌―しゃないんぼうせん)と呼ばれる茶室であり、およそ四百年前に活躍した大名茶人小堀遠州の晩年の作と伝えられています。
もともと、八窓庵は遠州の居城であった近江国(滋賀県)小室城内にありました。
流転の末、遠く離れた札幌にたどり着くことになりました。
発端は、天明8年(1788)に小堀家が藩財政の悪化と失政を理由に転封を命じられたことでした。
この時、小堀家に代々伝わる貴重な財産が散逸してしまい、八窓庵も滋賀県の長浜八幡宮俊蔵院へ移されることになりました。
転々とした後大正八年、言論人であり実業家の持田謹也氏が買い取り、札幌の自宅(北4条西12丁目)へ持ち帰りました。
持田氏は千葉県出身で、明治29年に北海道毎日新聞の編集長として来道。
明治39年には北海タイムス(現在の北海道新聞)の編集長、さらには取締役となった 人物です。 


その後、八窓庵の所有者は持田氏から実業家の長沢元清氏に変わり、
昭和26年には長沢氏から札幌市に寄付され、現在の場所へ移されました。
移築の際は、建物ごと掘り起し、巨大な特製台車に乗せて深夜に6時間かけて運びました。
こうして、中島公園に、江戸時代初期の貴重な遺構がよみがえりました。
2006年の春に大雪に押しつぶされ、修理し2008年改修完了。


正面に掲げられた 扁額(へんがく)「忘筌(ぼうせん)」。  
筌とは竹を編んで作った魚を捕る道具で、 荘子の句で「魚を得て筌を忘る」。理を悟って教えを忘る」とあります。
「目的を果たしたあとはそれを使った道具や手段を忘れてよい」という意味で、道具は茶道を学ぶための手段であって本来の目的を忘れてはならないという戒めの意味が込められています。
遠州の直筆といわれています


八窓庵は、二畳台目(3畳に4分の1足りない広さ)の茶室で、合計8個の窓を備え、席名もこれに基づいている。
八つの窓が狭い空間を広々と立体的なものにしており、窓の配置にも工夫がある。
茶席の2枚の畳にそれぞれ四つの窓が配され、光が集中するようになっており、その「照明」の効果は絶妙です。
昭和11年に国宝として指定され、法改正のため25年にあらためて重要文化財に指定された。
現在、本席とつながっている水屋ともう一つの茶室は、持田氏が八窓庵を買い取った際に付け加えたものです。


茶道では、茶室はもちろん、そこへ至るまでの通路や露地(庭)も重視されている。
露地は、茶の湯の世界を日常的な世界と隔離する結界だと考えられ、千利休も「茶の湯は露地口を入る時から始まる」と語ったという。
八窓庵の露地は、遠州の系譜に連なる遠州流茶道宗家12世の小堀宗慶氏が62年に作庭し、札幌市に寄贈したものであり、遠州と宗慶氏の時を超えた合作を楽しむことができます。


八窓庵が立つ日本庭園も趣深い。造営に当たっては北海道の山野の色を年と欧に置いたという。
庭石は日高の沙流川、胆振の鵡川などから運んだもので、池の護岸にはセメントを一切使わず、古来の名園を参考に石と丸太で組まれた。
12基の石灯ろうは京都の老舗石屋が全国各地の名だたる渡欧労の形をそろえました。

【アクセス】
地下鉄 南北線「中島公園駅」下車
市電  「中島公園通」下車
市バス 「中島公園入口」下車
日本庭園の開園時間:午前6時~午後7時
(4月下旬~11月上旬)


前のページ 次のページ